先人は物語る
REMEMBER 3.11
「記憶を風化させてはならない」
『東日本大震災』のような大きな災害や、昨今のロシアによるウクライナ侵攻(もはや戦争といっても過言ではありません)等が発生すると、必ずマスメディア上にあがる “フレーズ”
そもそも “記憶の風化” とは
歳月の経過に伴い、その出来事の記憶が薄れていくこと
大阪在住の私は、あの『阪神淡路大震災』を経験し
昨日食べた夕食の献立の “記憶” は定かではありませんが(笑)
2つの震災の “記憶” は、27年、11年経った今も鮮明・・・、ではないにしろ、残っています
戦争や災害、事件、事故等における “記憶” の特異性
一般的に“記憶” とは、“経験した出来事を心の中にとどめ、忘れずに覚えていること” で、主にその出来事を直接経験した当事者のものですが、戦争や災害、事件、事故における “記憶” は、マスメディアを介して話題にあがる頻度が高く、当事者だけでなく、それを経験していない第三者にとっても、インパクトの強いものになります
実際、私も 『阪神淡路大震災』 『東日本大震災』 が起きた時、直接的な経験(被災)はしておらず、その時の(中軽微な)揺れを体感したり、震災後の被害状況を客観的に見たに過ぎません・・・
が、例年震災が起きた日が近づくと、関連記事やテレビ、ネット放送を巷で目にすることによって、あの時の “記憶” を思い起こさせてくれます
“記憶” を風化させないことの意義
そもそも、戦争や災害、事件、事故等における “記憶の風化” を防ぐことによって
1.(加害者側に立って)同様の事柄による過ちを繰り返さない
2.(被害者側に立って)災害や事件、事故を未然に防ぐ
3.被害を(最小限に)抑える/善後策を講じる
ことが活かされると言われますが、この “記憶の風化”ふ にとって一番難しいのが
1.当事者、または同世代に生き、間接的に経験した第三者から次世代への伝承
2.伝承された(次世代の)第三者における“記憶”の維持、次々世代への伝承(語り継ぐという作業)
です
自分が経験した “記憶” 、特に忘れたくても忘れることができない悲しい(悔しい)出来事は、なかなか “風化” しにくいものですが
間接的に経験、伝承された者にとっての “記憶” は、どうしても希薄になりがちです(他人事ですもんね)
“記憶” を風化させない手立てとして
現在では、マスメディアを通じて、その出来事の映像、記事や(科学的)データ等が、いつでも、どこでも目にすることができ、“記憶の風化” を防ぐ手立ての主流といっても過言ではありません
では、今のような文明の利器がない時代、どうやって、戦争や災害、事件、事故等における “記憶の風化” を防ぐ手立てを講じていたのでしょうか?
石碑は物語る
石碑・・・せきひ。いしぶみ。後世に伝えるため、人の事績や災害、事件、事故等を記念や戒めの文として、刻みつけた石造りの碑
参考URL&挿絵画像:Wikipediaより(ありがとうございます!)
関西在住でご存じの方はいらっしゃるかと思いますが、大阪市内の京セラドーム近くにある『大地震両川口津浪記(だいじしんりょうかわぐちつなみき)』という名の石碑
その昔(江戸時代)に大阪にも津波が来たそうで、1854年12月24日の※安政南海地震後に発生した津波の状況とその津波にで亡くなった犠牲者への慰霊、1707年に発生した宝永地震の時に起きた同様の災害の教訓が生かせなかったことを、後世への “戒め” として残すため建立されたもの
江戸時代後期の1854年12月24日(嘉永7年旧暦の11月5日)に発生した南海トラフ巨大地震の1つ。約32時間前の12月23日(旧暦の11月4日)午前9~10時に発生した『安政東海地震』と共に、『安政地震』、『安政大地震』とも総称される。この地震が起きた当時の文書には『嘉永七年』と記録されているが、この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元され安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる
高校生の時に、たまたま石碑の近くを通りかかり、この存在を知った次第でm(__)m
石碑に刻まれている文章を直接読み取ることはできず、石碑の内容を補足説明する欅板の看板やその後方に設置されている解説看板で、その内容がかろうじてわかり(笑)、感慨にふけった “記憶” が・・・
碑文の内容
・先ず、嘉永7年6月14日の午前零時頃に大地震があり、大阪の町の人々は川のほとりにたたずみ、4~5日間、余震に恐れながら、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良で死者が多く出た
・次に同年11月4日の午前8時頃に大地震が発生した。以前から恐れていたため、空き地に小屋を建て、お年寄りや子供達が多く避難していた
・地震が発生しても、水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところに、翌日の5日午後4時頃、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生、それらがおさまった夕暮れに、雷のような轟音とともに一斉に津波が押し寄せてきた
・安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀に泥水が約1.4メートルの深さまで流れ込んだ
・安治川・木津川両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちた
・さらに、大きな道路にまで水が溢れ、慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もいた
・道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し、川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった
・大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、その轟音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった
・また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると、心配した人々が上町(台地)方面へ慌てて避難した
・その昔(宝永4年10月4日)の大地震の際も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人が多かったと聞いているが、長い年月が過ぎ、このことを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今回もまた同じように多くの人々が犠牲となってしまった
・今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけないし、建物は壊れ、火事になることもある
・お金や大事な書類などは大切に保管し、何よりも「火の用心」が肝心である
・川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、もしくは早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである
・津波というのは、沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもある
・海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもあり、今回の地震で大和の古市(奈良県北部)では、池の水があふれ出し、家が数多く押し流されたが、これと同じ現象なので、海辺や大きな川や池のそばの住民は用心が必要である(今でいう液状化現象ですね)
・津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、(後世の人々に対し)十分心得えるように
3.犠牲者への慰霊ならびに後世の人々(我々)への依頼
・犠牲になられた方々のご冥福を祈る(仏教の題目も書かれている)
・つたない文章であるが、ここに記録しておくので、心ある人は、時々この碑文が読みやすいよう(時の経過とともにこの石碑に刻まれた文の墨が薄くなっていくことを思ってか)墨を入れ、伝えていってほしい
1855年7月に建立されて以来、幾度か移設されたものの、碑文が読み易いように住民たちが適宜、碑文に墨入れを行い、管理され続けているそうです
高校時代の懐かしい “記憶” が蘇りました!m(__)m
参考YouTube:TSUNAMI JAPANさん 【安政南海地震】大地震両川口津波記 より(ありがとうございます!)
石碑以外に、当該の集会や式典、記念館・歴史資料館等の存在があります
それらも石碑同様、自ら現地に赴き、実際に経験された方々のお話や、発生した場所や遺物を目で見、耳で聞き、心に感じるという、本当の意味で “記憶の風化” を防ぐ、良い手立てではないでしょうか?
ご興味のある方は、下記URLで地元にある石碑を調べ、ご散歩がてら、実物をご覧になり、先人の遺訓に思いを馳せ、災害における “記憶の風化” 防止の一助にされてみてはいかがですか?
皆さんの地元にも石碑があれば、是非!
参考URL:国土地理院 「自然災害伝承碑」より(ありがとうございます!)
11年前の『東日本大震災』は、本震とされる『東北地方太平洋沖型地震』の平均発生間隔として、約600年程度とされているそうです
このような大地震は、そうそう起きるものではありません
が、未だ “余震” と称する大きな揺れが発生し続け、また約600年後に本震が発生するとも言われています
これは『東日本大震災』に限ったことではなく、日本には地理的な条件に起因し、またいつか発生する可能性が高いところが多く、それゆえ長い間地震が起きなかったとしても、いつかは起きるものとして、その地における “記憶” を風化させないことが、そこに住む人々を守ることに繋がります
また、震源地に該当しない地に住まれていても、総体的な地震・災害の “記憶” を風化させず、自発的に心に留め置くことができれば、いざ地震が起きても、守られる命は多分にあるかとも思います(移動手段が発達した現代では、どこにでも行くことができ、そのため、旅行や出張先で地震に遭う可能性もゼロとは言えませんものね!)
戦争や災害、事件、事故等における “記憶” を風化させないこととは、守られる命を増やすことに繋がる
最後に・・・
人の上に立つ者(為政者)こそ肝に銘じて欲しい “石碑”
『戒石銘』の原典は、965年、の後蜀(ごしょく)の君主、孟昶(もうちょう)が作った “二十四句九十六文字” の 『戒諭辞(かいゆじ=戒め諭すことば)』 だといわれています
983年、北宋(ほくそう)の君主、太宗(たいそう)が、この『戒諭辞』より “四句十六文字” を抜き出し、『戒石銘』とし、これを官史に示し、戒めとしたそうな
その後、南宋(なんそう)の君主、高宗(こうそう)が 『戒石銘』 碑を、各州県に頒布し、この時代中国全土に広く建てられたとされています
所変わって 1749年(寛延2年)、二本松藩の第五代藩主、丹羽高寛(にわ たかひろ)が、藩士達の戒めとするために建立したもの。藩の儒学者、岩井田昨非(いわいだ さくひ)の進言によって建てられたといわれてます
この石碑には、こう刻まれている
爾俸爾禄 “なんじの俸(ほう) なんじの禄(ろく)は”
民膏民脂 “民の膏(こう) 民(たみ)の脂(し)なり”
下民易虐 “下民(かみん・げみん)は虐(しいた)げやすきも”
上天難欺 “上天(じょうてん)は欺(あざむ)きがたし”
この “四句十六文字” の意味合いとしては
『お前が手にする富は、すべて民の汗によるものである。下々の民は、権力で押さえ従わせることができても、天を欺くことはできない』(だから自分を律し、身を慎み、民を大切にしないといけないかと!)
元来、この碑文は、為政者が家臣を戒めるために残したもの・・・
ですが、この先人の言葉を、後輩である現在の中国、ならびに、ロシアの為政者のお二方に是非、読んでいただきたいものです
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
書籍も “記憶の風化を防ぐ手立て” “守れる命を増やすこと” に繋がります!
カバー(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)