なぜ、雨の日を良い天気といわないのか?
梅雨入りですね・・・(憂鬱)
2022(令和4)年梅雨入り状況
沖縄・・・5月4日 平年より6日早く、昨年より1日早い
奄美・・・5月11日 平年より1日早く、昨年より6日遅い
関東・甲信・・・6月6日 平年より1日早く、昨年より8日早い
九州南部・・・6月11日 平年より12日遅く、昨年より31日遅い
九州北部・・・6月11日 平年より7日遅く、昨年より31日遅い
四国・・・6月13日 平年より8日遅く、昨年より32日遅い
中国・・・6月14日 平年より8日遅く、昨年より33日遅い
近畿・・・6月14日 平年より8日遅く、昨年より2日遅い
東海・・・6月14日 平年より8日遅く、昨年より1日遅い
北陸・・・6月14日 平年より3日遅く、昨年より1日遅い
東北南部・・・6月15日 平年より3日遅く、昨年より4日早い
東北北部・・・6月15日 平年と同じ、昨年より4日早い
なぜ、雨の日を“良い天気”といわないのか?
よく考えるとそうですよね~(反省)
そこで、今回はその疑問や「雨」にまつわる雑学の数々を考察していきたいと思いますm(_ _)m
挿絵画像:Facebook 「ジブリ」より(おっしゃる通り!m(_ _)m)
そもそも “天気(の意味)” とは?
1. ある地点の ある時刻における 大気の総合的な状態(=気象状態)※意外と難しい
具体的には、気温、湿度、風向き、視程、降水、雲量、気圧などの要素を指すそうな
2. 晴天。※これだ
天気 = 晴天 の概念が
“良い天気” = “晴天な日”
“悪い天気” = “晴天でない(雨もしくは曇りな)日”
という考え方になる
雨の種類が400種以上!?
には、雨の種類を言いあらわす言葉が400種以上あるそうな
日本語には雨を表現する言葉(呼び方)がたくさんあり、一説には400種以上あるそうな※さすが、四季があり、一年中雨が降る国、NIPPON
それゆえに日本人は、昔よりその雨を疎み、時には感謝しながら、共生してきましたが、
その中で、悪いイメージの雨の表現や、逆に良いイメージの表現を解説
ダークサイドな雨の表現
【天気予報でよく聞く言葉】
・大雨(おおあめ)
大量に降る雨。大雨注意報の基準を超える雨
・強雨(きょうう)
大量に降る強い雨
・豪雨(ごうう)
大量に降る激しい雨
・ゲリラ豪雨(げりらごうう)
限られた場所に短時間集中的に降る、急激な強い雨
・集中豪雨(しゅうちゅうごうう)
限られた場所に集中的に降る激しい雨。警報基準を超えるような局地的な大雨
・スコール
短時間に猛烈に降る雨。熱帯地方で雨を伴ってくる突発的な強風に依る
・線状降水帯(せんじょうこうすいたい)
次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなし組織化した積乱雲群によって、数時間にわたり、ほぼ同じ場所を通過、または停滞することで作り出される線状に伸びた、長さ50~300 km程度、幅20~ 50 km程度の強い降水をともなう雨域
【日本古来の言葉】
・鉄砲雨(てっぽうあめ)
大粒の、鉄砲のような強烈な雨
・篠突く雨(しのつくあめ)
細い竹や篠で突くような、激しく降る雨
・飛雨(ひう)
風が混じった激しい雨
・夕立(ゆうだち)
夏の夕方に降る、短時間で降る雷を伴った雨※「スコール」の和名ともいわれる代表的な表現
・神立(かんだち)
神様が何かを伝えようとしている「雷」を指すことから、夕立や雷雨を意味する※“神ってる” “神対応” という良い言葉もありますが、元々“神”は、畏怖の念を抱くものなんですね
・電雨(でんう)
夏に稲妻とともに降る俄雨
・鬼雨(きう)
鬼の仕業ともいえるような、急で激しい雨※「ゲリラ豪雨」の和名ともいえる表現。現代でもよく、“鬼かわいい” “鬼速い” とかいいますよね(笑)
・肘笠雨(ひじかさあめ)
急に降り出す雨。笠をかぶる暇もなく、肘で頭を覆う様子が由来
・長雨(ながあめ)
数日以降降り続く、まとまった雨
・陰雨(いんう)
しとしとと降り続く陰気な雨。「淫雨」とも書く
・地雨(じあめ)
強さが一定の長く降り続く雨
・連雨(れんう)/霖雨(りんう)
連日降り続く雨
・積雨(せきう)
積もっていくように、長く降り続く雨
・宿雨(しゅくう)
前夜から降り続く雨
・漫ろ雨(そぞろあめ)
それほど強くはないが、降り続く雨
・怪雨(かいう)
色がついていたり、異物を含む雨。つむじ風に巻き上げられた魚やカエル、木の実、火山灰などが降ったという観測もある
・時雨(しぐれ)
あまり強くないが、降ったりやんだりする雨。傘を差す間もなくすぐに晴れるような通り雨
・村時雨(むらしぐれ)
ひとしきり強く降り、すぐに通り過ぎる雨※ある意味“村時雨”も「ゲリラ豪雨」ですよね!
・片時雨(かたしぐれ)
ひとところに降る村時雨※まさに「ゲリラ豪雨(局地的大雨)」!
・横時雨(よこしぐれ)
横殴りに降る村時雨
・氷雨(ひさめ)
霙(みぞれ)や雪に変わる前の、非常に冷たい雨※ホント、冷たくて寒い雨も嫌ですね~
・凍雨(とうう)
凍るような冷たい雨
・黒雨(こくう)
空を真っ暗にするような大雨
以上が、雨を悪いイメージにさせる表現
昨今、地球温暖化による異常気象の代名詞といっても過言でもない「ゲリラ豪雨」や「線状降水帯」と似た表現が古来日本にもあるのが、とても興味深い
次に、良いイメージとして・・・
ライトサイドな雨の表現
・翠雨(すいう)
青葉に降り注ぐ恵みの雨
・喜雨(きう)
日照り続きの後に降る喜びの雨。「雨喜び(あまよろこび)」ともいう
・慈雨(じう)
干ばつを救い、草木を潤す恵みの雨。「喜雨」と同義
・甘雨(かんう)
草木を潤す、しとしととした雨。「慈雨」と同義
・緑雨(りょくう/青雨(せいう)
青々とした新緑の草木に降る雨
・紅雨(こうう)
春に咲いた花々に降り注ぐ雨
・白雨(はくう)
夏、明るい空から降る、俄雨※暑い夏の日の俄雨は “一服の清涼剤” になりますよね!
・洗車雨(せんしゃう)
陰暦7月6日、七夕の前日に降る雨。彦星が織姫に会う際に使用される牛車を洗う水と云われている※私も自家用車が汚れてる際に雨で洗車しますね(笑)
・血雨(けつう)
土壌由来の成分を含んだ、赤い色の雨
・作り雨(つくりあめ)
打ち水のこと※別名でこういう表現があるのですね
・樹雨(きさめ)
濃霧の森林を歩いている時に葉から滴り落ちてくる雨※心地よさそうですね
・雪解雨(ゆきげあめ)
冬に積もった雪を解かすようにふる雨※雪国の方には “恵みの雨” では?
・催花雨(さいかう)
花の育成を促す雨。「養花雨(ようかう)」「育花雨(いくかう)」とも呼ばれる
・麦雨(ばくう)
麦が熟する頃(梅雨の時期)に降る雨
以上が、雨を良いイメージにさせる表現
さすが、 “農耕民族” らしい “用水” としての役割が大半ですね
なぜ、「梅雨」に「梅」の漢字がはいるのか?
次に「梅雨」についてのお話
なぜ「梅雨」というのか?
諸説あるそうで、一般的なものとして下記の二つが挙げられるそうな
1.中国ルーツ説
の揚子江周辺では、梅の実が熟す頃が雨期にあたり、そのことから「梅」の字を使うようになったとされる
2.当て字説
雨によって黴(かび)が生えやすくなることがあげられ、そこから「黴雨(ばいう)」という言葉が生まれたというもの。ただし、語感が良くないので、「黴(ばい)」の字ではなく、「梅(ばい)」という字になったそうな
以上、二つの説で共通することは、「梅雨」は、当初 「ばいう」 と呼んでいたということ
なぜ、「梅雨」は「つゆ」と読むのか?
諸説あるそうで、一般的なものとして下記の二つが挙げられます
1.露(つゆ)けし語源説
雨が多い時期であることから、「露にぬれて湿っぽい 」という意味を持つ
「露けし」 からとったとされる
2.潰(つい)ゆ語源説
梅が熟して潰れる時期であることや、長雨により食べ物や衣服が傷んでしまう時期であることから、「潰ゆ(ついゆ)」 からとったとされる
「梅雨」にも色んなものがある
・入梅(にゅうばい)
梅雨に入ること。由来は梅の実が熟す頃に降る雨から
・栗花落(ついり)
梅雨に入ること。由来は栗の花が散る頃に降る雨から。「堕栗花」とも書く
・五月雨(さみだれ)
旧暦五月に降る長雨。梅雨のこと
・走り梅雨(はしりつゆ)
五月中旬から下旬にかけて降り続く、梅雨入り前の雨
・暴れ梅雨(あばれつゆ)
梅雨の時期の終盤に降る、強烈な雨
・送り梅雨(おくりつゆ)
梅雨明けを知らせる、雷を伴った雨
・返り梅雨(かえりつゆ)
梅雨明け後に、再び雨が降り続くこと。「戻り梅雨」「残り梅雨」とも呼ばれる
・旱梅雨(ひでりつゆ)
雨があまり降らない梅雨。「空梅雨(からつゆ)」「枯れ梅雨(かれつゆ)」とも呼ばれる
・男梅雨(おとこつゆ)
雨が降るときは激しく降り、雨が止むときはすっきり晴れる梅雨
・女梅雨(おんなあめ)
しとしととした、雨脚の弱い梅雨
※「男梅雨」「女梅雨」は、現代ではNG表現ですよね
参考URL:よろづ屋みっつん さんより(とても勉強になりました!ありがとうございます!!m(_ _)m)
「雨」にも “におい” がある
1.雨の降り始めのにおい・・・ペトリコール(石のエッセンス)
雨が降り始める際に、アスファルトから漂ってくる “におい”
これは、カビや排ガスなどを含むほこりが水と混ざり、アスファルトの熱によって、においの成分が気体となったものだそうです
この “におい” のことを 「ペトリコール(Petrichor)」。ギリシャ語で、「石のエッセンス」と呼ばれ
①雨粒が地面や植物の葉などに落ちた際に、微小な粒子を含んだエアロゾル(気泡)が放出
②植物由来の油が付着したエアロゾルが乾燥した粘土質の土壌や岩石に当たった際に、それらがもつ成分がエアロゾルの中に取り込まれる
③これらが、空気中に巻き上げられ、雨の降り始めの独特のにおいが生じる
そうな
また、雨がまだ降っていないところでも、不思議と雨を感じさせるにおいがするのは、雨が降っているところで、においを取り込んだエアロゾルが、風などによって運ばれてきたことが一因と考えられるそうな
2.雨上がりのにおい・・・ゲオスミン(大地のにおい)
雨上がりの際に、地面から漂ってくる “におい”
これは、土中のバクテリアなどにより作り出された有機化合物で、カビ臭いにおいで、雨水によって拡散するそうな
この “におい” のことを「ゲオスミン(Geosmin)」。ギリシャ語で、「大地のにおい」と呼ばれます
「ペトリコール」や「ゲオスミン」の他にも、雨を感じさせるにおいの成分として、オゾンもあるそうな
それにしても、さすがギリシャ 紀元前よりアスファルトを使い、石畳等の舗装道路を作っただけありますよね
「雨」にまつわる妖怪
日本の伝統文化でもある “妖怪”
この中にも「雨」にまつわるものがいて、そのことが「雨」に対して悪いイメージを与えたのでは・・・?
・雨降り小僧/豆腐小僧/雨の小坊主
では雨の神を「雨師(うし)」と呼ばれ、それに仕える子供が「雨降り小僧」だといわれる。
では和傘を頭に被り、提灯を持った姿で描かれ、時に通り雨を降らせ、 人が困る様子を見て喜ぶいたずら好きの妖怪。似た妖怪に「豆腐小僧」 「雨の小坊主」がいる※ちなみに「豆腐小僧」が持っている豆腐をすすめられて食べてしまうと、体中にかびが生えるそうな(誰が食べるかっ)
・すねこすり
犬のような姿をし、雨の降る夜に現れ、夜道を歩いていると、足の間をこすりながら通り抜けたり、歩いている人の足をひっぱって転ばせるという妖怪※メッチャ迷惑な妖怪や
・雨女
ルーツが諸説あり。
①産んだばかりの子供を雨の日に神隠しに遭って失った女性が「雨女」となり、泣いている子供のもとに大きな袋を担いで現れ、さらっていくもの
②雨の日に訪れる神が堕落して妖怪化したもの
などがある
基本、「雨を呼ぶ迷惑な妖怪」とされるが、干ばつが続いたときに雨を降らせてくれる「雨を呼び人を助ける妖怪」という神聖な「雨神(龍神)」の一種とされることもあるそうな※その昔、自称「雨女」の会社の同僚が慰安旅行で、本当に天気を覆して大雨を降らし、時の上司に「雨が降らない砂漠の国の王子の嫁になれ❗」と今なら立派なモラハラになることを言われてたの思い出しました(ある意味、神ってるよな~)
ちなみに、私も 迷惑な 「雨男」 です
最後に、これから始まる「梅雨」の時期が楽しく過ごせるよう
「雨」にまつわる歌をご紹介!
「雨」にまつわる歌
参考URL:JOYSOUND さんより(ありがとうございます!)
参考URL:mora さんより(ありがとうございます!)
ちなみに、私の大好きな歌は 「はじまりはいつも雨」 です
先人は物語る
REMEMBER 3.11
「記憶を風化させてはならない」
『東日本大震災』のような大きな災害や、昨今のロシアによるウクライナ侵攻(もはや戦争といっても過言ではありません)等が発生すると、必ずマスメディア上にあがる “フレーズ”
そもそも “記憶の風化” とは
歳月の経過に伴い、その出来事の記憶が薄れていくこと
大阪在住の私は、あの『阪神淡路大震災』を経験し
昨日食べた夕食の献立の “記憶” は定かではありませんが(笑)
2つの震災の “記憶” は、27年、11年経った今も鮮明・・・、ではないにしろ、残っています
戦争や災害、事件、事故等における “記憶” の特異性
一般的に“記憶” とは、“経験した出来事を心の中にとどめ、忘れずに覚えていること” で、主にその出来事を直接経験した当事者のものですが、戦争や災害、事件、事故における “記憶” は、マスメディアを介して話題にあがる頻度が高く、当事者だけでなく、それを経験していない第三者にとっても、インパクトの強いものになります
実際、私も 『阪神淡路大震災』 『東日本大震災』 が起きた時、直接的な経験(被災)はしておらず、その時の(中軽微な)揺れを体感したり、震災後の被害状況を客観的に見たに過ぎません・・・
が、例年震災が起きた日が近づくと、関連記事やテレビ、ネット放送を巷で目にすることによって、あの時の “記憶” を思い起こさせてくれます
“記憶” を風化させないことの意義
そもそも、戦争や災害、事件、事故等における “記憶の風化” を防ぐことによって
1.(加害者側に立って)同様の事柄による過ちを繰り返さない
2.(被害者側に立って)災害や事件、事故を未然に防ぐ
3.被害を(最小限に)抑える/善後策を講じる
ことが活かされると言われますが、この “記憶の風化”ふ にとって一番難しいのが
1.当事者、または同世代に生き、間接的に経験した第三者から次世代への伝承
2.伝承された(次世代の)第三者における“記憶”の維持、次々世代への伝承(語り継ぐという作業)
です
自分が経験した “記憶” 、特に忘れたくても忘れることができない悲しい(悔しい)出来事は、なかなか “風化” しにくいものですが
間接的に経験、伝承された者にとっての “記憶” は、どうしても希薄になりがちです(他人事ですもんね)
“記憶” を風化させない手立てとして
現在では、マスメディアを通じて、その出来事の映像、記事や(科学的)データ等が、いつでも、どこでも目にすることができ、“記憶の風化” を防ぐ手立ての主流といっても過言ではありません
では、今のような文明の利器がない時代、どうやって、戦争や災害、事件、事故等における “記憶の風化” を防ぐ手立てを講じていたのでしょうか?
石碑は物語る
石碑・・・せきひ。いしぶみ。後世に伝えるため、人の事績や災害、事件、事故等を記念や戒めの文として、刻みつけた石造りの碑
参考URL&挿絵画像:Wikipediaより(ありがとうございます!)
関西在住でご存じの方はいらっしゃるかと思いますが、大阪市内の京セラドーム近くにある『大地震両川口津浪記(だいじしんりょうかわぐちつなみき)』という名の石碑
その昔(江戸時代)に大阪にも津波が来たそうで、1854年12月24日の※安政南海地震後に発生した津波の状況とその津波にで亡くなった犠牲者への慰霊、1707年に発生した宝永地震の時に起きた同様の災害の教訓が生かせなかったことを、後世への “戒め” として残すため建立されたもの
江戸時代後期の1854年12月24日(嘉永7年旧暦の11月5日)に発生した南海トラフ巨大地震の1つ。約32時間前の12月23日(旧暦の11月4日)午前9~10時に発生した『安政東海地震』と共に、『安政地震』、『安政大地震』とも総称される。この地震が起きた当時の文書には『嘉永七年』と記録されているが、この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元され安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる
高校生の時に、たまたま石碑の近くを通りかかり、この存在を知った次第でm(__)m
石碑に刻まれている文章を直接読み取ることはできず、石碑の内容を補足説明する欅板の看板やその後方に設置されている解説看板で、その内容がかろうじてわかり(笑)、感慨にふけった “記憶” が・・・
碑文の内容
・先ず、嘉永7年6月14日の午前零時頃に大地震があり、大阪の町の人々は川のほとりにたたずみ、4~5日間、余震に恐れながら、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良で死者が多く出た
・次に同年11月4日の午前8時頃に大地震が発生した。以前から恐れていたため、空き地に小屋を建て、お年寄りや子供達が多く避難していた
・地震が発生しても、水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところに、翌日の5日午後4時頃、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生、それらがおさまった夕暮れに、雷のような轟音とともに一斉に津波が押し寄せてきた
・安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀に泥水が約1.4メートルの深さまで流れ込んだ
・安治川・木津川両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちた
・さらに、大きな道路にまで水が溢れ、慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もいた
・道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し、川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった
・大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、その轟音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった
・また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると、心配した人々が上町(台地)方面へ慌てて避難した
・その昔(宝永4年10月4日)の大地震の際も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人が多かったと聞いているが、長い年月が過ぎ、このことを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今回もまた同じように多くの人々が犠牲となってしまった
・今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけないし、建物は壊れ、火事になることもある
・お金や大事な書類などは大切に保管し、何よりも「火の用心」が肝心である
・川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、もしくは早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである
・津波というのは、沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもある
・海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもあり、今回の地震で大和の古市(奈良県北部)では、池の水があふれ出し、家が数多く押し流されたが、これと同じ現象なので、海辺や大きな川や池のそばの住民は用心が必要である(今でいう液状化現象ですね)
・津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、(後世の人々に対し)十分心得えるように
3.犠牲者への慰霊ならびに後世の人々(我々)への依頼
・犠牲になられた方々のご冥福を祈る(仏教の題目も書かれている)
・つたない文章であるが、ここに記録しておくので、心ある人は、時々この碑文が読みやすいよう(時の経過とともにこの石碑に刻まれた文の墨が薄くなっていくことを思ってか)墨を入れ、伝えていってほしい
1855年7月に建立されて以来、幾度か移設されたものの、碑文が読み易いように住民たちが適宜、碑文に墨入れを行い、管理され続けているそうです
高校時代の懐かしい “記憶” が蘇りました!m(__)m
参考YouTube:TSUNAMI JAPANさん 【安政南海地震】大地震両川口津波記 より(ありがとうございます!)
石碑以外に、当該の集会や式典、記念館・歴史資料館等の存在があります
それらも石碑同様、自ら現地に赴き、実際に経験された方々のお話や、発生した場所や遺物を目で見、耳で聞き、心に感じるという、本当の意味で “記憶の風化” を防ぐ、良い手立てではないでしょうか?
ご興味のある方は、下記URLで地元にある石碑を調べ、ご散歩がてら、実物をご覧になり、先人の遺訓に思いを馳せ、災害における “記憶の風化” 防止の一助にされてみてはいかがですか?
皆さんの地元にも石碑があれば、是非!
参考URL:国土地理院 「自然災害伝承碑」より(ありがとうございます!)
11年前の『東日本大震災』は、本震とされる『東北地方太平洋沖型地震』の平均発生間隔として、約600年程度とされているそうです
このような大地震は、そうそう起きるものではありません
が、未だ “余震” と称する大きな揺れが発生し続け、また約600年後に本震が発生するとも言われています
これは『東日本大震災』に限ったことではなく、日本には地理的な条件に起因し、またいつか発生する可能性が高いところが多く、それゆえ長い間地震が起きなかったとしても、いつかは起きるものとして、その地における “記憶” を風化させないことが、そこに住む人々を守ることに繋がります
また、震源地に該当しない地に住まれていても、総体的な地震・災害の “記憶” を風化させず、自発的に心に留め置くことができれば、いざ地震が起きても、守られる命は多分にあるかとも思います(移動手段が発達した現代では、どこにでも行くことができ、そのため、旅行や出張先で地震に遭う可能性もゼロとは言えませんものね!)
戦争や災害、事件、事故等における “記憶” を風化させないこととは、守られる命を増やすことに繋がる
最後に・・・
人の上に立つ者(為政者)こそ肝に銘じて欲しい “石碑”
『戒石銘』の原典は、965年、の後蜀(ごしょく)の君主、孟昶(もうちょう)が作った “二十四句九十六文字” の 『戒諭辞(かいゆじ=戒め諭すことば)』 だといわれています
983年、北宋(ほくそう)の君主、太宗(たいそう)が、この『戒諭辞』より “四句十六文字” を抜き出し、『戒石銘』とし、これを官史に示し、戒めとしたそうな
その後、南宋(なんそう)の君主、高宗(こうそう)が 『戒石銘』 碑を、各州県に頒布し、この時代中国全土に広く建てられたとされています
所変わって 1749年(寛延2年)、二本松藩の第五代藩主、丹羽高寛(にわ たかひろ)が、藩士達の戒めとするために建立したもの。藩の儒学者、岩井田昨非(いわいだ さくひ)の進言によって建てられたといわれてます
この石碑には、こう刻まれている
爾俸爾禄 “なんじの俸(ほう) なんじの禄(ろく)は”
民膏民脂 “民の膏(こう) 民(たみ)の脂(し)なり”
下民易虐 “下民(かみん・げみん)は虐(しいた)げやすきも”
上天難欺 “上天(じょうてん)は欺(あざむ)きがたし”
この “四句十六文字” の意味合いとしては
『お前が手にする富は、すべて民の汗によるものである。下々の民は、権力で押さえ従わせることができても、天を欺くことはできない』(だから自分を律し、身を慎み、民を大切にしないといけないかと!)
元来、この碑文は、為政者が家臣を戒めるために残したもの・・・
ですが、この先人の言葉を、後輩である現在の中国、ならびに、ロシアの為政者のお二方に是非、読んでいただきたいものです
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
書籍も “記憶の風化を防ぐ手立て” “守れる命を増やすこと” に繋がります!
カバー(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)
『左近の桜』『右近の橘』 後編
カバー(画像):「実鈴」さん作(ありがとうございます)
ひな祭りもおわりましたね~!
お嬢様をお持ちのご家庭の皆さんは
もう※お飾りのお片付けは済まされました?
ヤバい! うちはまだだ~!!
娘たちが行き遅れる~!!!
※お飾りのお片付けのタイミングはあるの?
特にないとのことですが、下記の時期に片付けると良い。言われているそうな
1.ひな祭り(3月3日)が終わったらすぐ片付ける地方が多いが、4月3日(旧暦の3月3日)まで飾る地域もあるそうな(良かった!まだ大丈夫!!)
2.※二十四節気の一つ、啓蟄(けいちつ)に片付けるのがベストと言われてるそうな※新暦でいうと、実は今日です!
元々ひな祭りは、※(五)節句の一つ、『上巳(じょうし)の節句』(別名、桃の節句とも呼ばれる)で、二十四節気と共にから持ち込まれた “季節の節目” に関する慣習で、その節目に片付けると良いとされるのが理由らしいです
ですから、ひな祭りから約2週間を目安に。とか、 新暦の3月の中旬頃、旧暦なら4月中旬くらいまでに片付けるのが良いとよく言われるのは、下記の二十四節気に該当すれば。と言うことらしいです
【今年のひな祭り後の二十四節気】
啓蟄(けいちつ)3月5日(旧暦では4月5日になる)
春分(しゅんぶん)3月21日(旧暦では4月21日になる)
清明(せいめい)4月5日
3.一番科学的で(笑)、かつ、理にかなっているのが、天気!
よく晴れた、湿気の少ない日に片付けると良い。ひな人形に使用されている生地は湿気に弱く、天候の悪い、湿度が高い日に片付けると人形に湿気が残り、カビやシミの元になるそうな
ひな人形を片付けるのが遅れると、婚期が遅れる。と言われますが
結論から言うとただの迷信です
その昔、「片付けがちゃんとできないようでは、きちんとした女性になれず、お嫁にもいけない」と、しつけの意味を込めての言い伝えで、かつ、 情操教育のひとつとされたのです※女性に限らず、男性もしかり!(反省)
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
※(五)節句
さて、前回のつづきですが・・・
ひな飾りの中心人物である 『お内裏様』 と 『お雛様』 にも
“かみしも(上座下座)” があることをご存じですか?
古来の礼法のしきたりで、「左上右下(さじょううげ)」という言葉があり
その中で一番偉い人、格の高い人、年配の人等が、一番左に座り(左上座)
その右以降は、次に偉い人、格の低い人、若い人等が座る(右下座)
という意味で、元々はから伝わったしきたりで、日本の飛鳥時代(中国は唐の時代)から明治時代に欧米のしきたりが入るまで、中心だった考え方でした
ですから、京都に都があった時代の帝(今の天皇陛下)は、妃(今の皇后陛下)の左側、つまり、我々から向かって右側に座っていました※今回のカバー画像は欧米のしきたりで並びが逆
明治時代になって、欧米のマナー(※プロトコル)が日本へ入り、皇室のしきたりが変化したそうな
大正天皇が皇后陛下の右に立って写真を撮影して以来、現在に至るまで天皇陛下の位置は皇后陛下の右側(我々からみて左側)が決まりとなった
そして、昭和3(1928)年、昭和天皇が皇后陛下の右にお立ちになった御大典(即位の式)の写真が全国的に広まった頃より、東京を中心に、ひな人形のお内裏様を我々からみて左側に、お雛様を右側に飾るようになったそうな
その際、二段目以降の人形の位置は変わらなかったために、お内裏様は右上位(我々からみて左側)ながら、代表的な随身一位の左大臣は、左上位(我々からみて右側)のままと新旧二つのしきたりが介在することなる※ややこしい・・・
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
しかし、京都のように古い慣習を大事にする土地では
現在も昔の「左上右下(左上座右下座)」で飾っています
「京(風)雛」 と
それ以外の 「関東(風)雛」 の違い
一段目、お内裏様とお雛様について
1.お内裏様とお雛様の位置
【京雛】
古来の「左上右下」のしきたりのもと、お内裏様が左上位(我々からみて右側)
お雛様が右下位(我々からみて左側)
【関東雛】
お内裏様が我々からみて左側(右上位?)で、お雛様は右側(左上位?)
実は、現在の※ひな祭り(ひな人形)の形は、江戸時代初期に武家の子女等、身分の高い女性の嫁入り道具の家財の一つとして作られたらしく、元々は京ではなく、江戸がルーツだといわれてます
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
※ひな祭り(ひな人形)
では、何故「関東雛」のお内裏様が左側で、お雛様が右側なのかというと・・・
徳川第二代将軍であり、最終官職として太政大臣にもついた、徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘、東福門院和子(とうふくもんいんかずこ)が当時天皇だった第108代天皇の後水尾(ごみずのお)天皇に嫁ぎ、皇后となり、その間にできた娘(内親王)が、のちの第109代天皇の※明正(めいしょう)天皇となったために
お雛様が女帝だから、左上位(我々からみて右側)
お内裏様が右下位(我々からみて左側)※実際は、「女帝は即位後、独身を通さなくてはいけない」という不文律があり、生涯独身で、74歳に崩御されたとのこと
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
※明正(めいしょう)天皇
2.お内裏様とお雛様の顔
【京雛】
特徴は、細面で鼻筋が通っており、目は切れ長な、高貴な顔
【関東雛】
特徴は、少しふっくらとした顔立ち。目が大きめ、口元は少し笑っている現代的な顔だそうな
二段目、『三人官女』について
【京雛】
中央の官女が持っているのは、「※島台(しまだい)」
参考URL:コトバンクより(ありがとうございます!)
※島台(しまだい)
【関東雛】
中央の官女が持っているのは、「三方(さんぽう)」で、盃を乗せる台のこと
現在のひな飾り(ひな人形)では、「関東雛」 の 「三方(さんぽう)」 がポピュラーです
三段目、『五人囃子』について
基本、「京雛」 「関東雛」 とも
能楽の地謡(詞章を合唱する演者)と囃子方(能の音楽を担当する奏者)ですが
たまに、※雅楽の楽士を並べるものもあるそうです
参考URL:文化遺産オンラインより(ありがとうございます!)
※(五人囃子)雅楽の楽士
五段目、『仕丁(しちょう・じちょう)』について
挿絵(画像):「実鈴」さん作(ありがとうございます)
仕丁(しちょう・じちょう)とは、平安時代以降、身分の高い家のもとで、雑務に従事したもののことで、地方から出てきて無報酬で働いていた、ひな人形の中で唯一の庶民です
そういった境遇でもあるため、「怒り」 「泣き」 「笑い」 という三つの表情で作られていることが多く、「三人上戸(さんにんじょうご)」とも呼ばれるそうで、「京雛」 「関東雛」 では、持ち物が違います
【関東雛】※上記挿絵画像参照願います
・我々から向かって左側の仕丁
血色の良い、うすだいだい色の肌をした「怒り」の中年男性で、台傘(日傘)をもっている
・中央の「泣き」の仕丁
血色の悪い(?)、色白の肌をした「泣き」の青年男性で、沓台(沓を置くための台)をもっている
・我々から向かって右側の仕丁
血色の良い、うすだいだい色の肌をした「笑い」の老人男性で、立傘(雨傘)をもっている
【京雛】
・我々から向かって左側の仕丁
基本、血色の良い、うすだいだい色の肌をした「怒り」の中年男性で、熊手をもっている
・中央の「泣き」の仕丁
基本、血色の悪い(?)、色白の肌をした「泣き」の青年男性で、ちりとりをもっている
・我々から向かって右側の仕丁
基本、血色の良い、うすだいだい色の肌をした「笑い」の老人男性で、竹箒をもっている
これは余談ですが、前編に
ひな人形の中で、お顔(肌)の色で血行の良い方々は、『左大臣(老人)』 と一部の『仕丁(しちょう・じちょう)』 だけとお話しましたが、どうやら、中高年(老人)層の人形だけ、肌の色が濃い傾向にありますね~※是非、ご自宅のひな人形で確認してください!
現在にもいきづく
“かみしも(上手下手)”の慣習
前編に、今回の話題に関する内容を
私が専門学校で教鞭をとっていた時に授業をしたと申し上げましたが
将来ホテル・ブライダル業界の就職を目指す(ほとんどが女子)学生に対し
古来の “かみしも” ならびに、欧米における “かみしも(プロトコル)” が混在する
このややこしい日本で(笑)、少しでも理解を深めてもらうために授業をしたという経緯がありまして、最後にその時に話した内容を少しばかり・・・
舞台ならびに落語のおける “かみしも(上手下手)”
基本、舞台は、我々からみて、右側が上手、左側が下手ですが
これは、舞台(からみて)を中心にして、「左が上手」 「右が下手」 が原則だからなんです
挿絵(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)
その影響は、落語の “かみしも(上手下手)” にもいきづいています
一人で話す「落語」において、どちらを向いて話をしているかで、その人物の身分や年齢がわかります
の演劇では
「上手(我々からみて右側)」に「身分の高い人」や「年上の人」が座る設定になっていることから
落語においても
「上手」を向いて話している人は、「身分の高い人」 「年上の人」
「下手」を向いて話をしている人は、「身分の低い人」や「年下の人」となるわけです※ひな人形の左大臣右大臣と同じでしょ?
結婚式における “かみしも(上手下手)”
における代表的な結婚式のスタイルは 「神前式」 「キリスト教式」 でして
新郎・新婦の立つ位置は同じ、新郎の左側に新婦(=新婦の右側に新郎)です
我々からみて、左に「新郎」 右に「新婦」 です
が、その理由がそれぞれ違うのです
「神前式」の場合
式場内の神様がいるご神殿からみて
「左が上手」 よって 「新郎」
「右が下手」 よって 「新婦」
日本古来の「左上右下(左上位右下位)」の原則で
我々からみても 「左に新郎」 「右に新婦」になのですが
“かみしも” 上、神様からみて “上手下手” なんですね~(難)
「キリスト教式」の場合
欧米の “かみしも(プロトコル)” にのっとって
「並んだ時に右側に来る方を上位とする」
「右上左下(右上位左下位)」 が原則なので
「新郎」 「新婦」 本人からみて
「右が上手」 よって 「新郎」
「左が下手」 よって 「新婦」
我々からみると、「左に新郎」 「右に新婦」 となるわけです
いかがだったでしょう?
まだまだ “かみしも(上手下手)” に関するお話は
つきませんが、今回はここまでに・・・m(__)m
それよりも、早く
ひな人形を片付けないと!
『左近の桜』『右近の橘』 前編
カバー(画像):「しぶしぶ」さん作(ありがとうございます)
もうすぐひな祭りですね~!
※弥都波能売神(みづはのめのかみ)
※左近の桜
※右近の橘
※うれしいひなまつり
参考URL:『暮らしを便利にもっと豊かに』より(ありがとうございます!)
※肌色(英会話にも役立つお話!!)
ということで、ひな人形の飾り方は
基本、お内裏様、お雛様目線での “かみしも(上手下手)” を考えると
それ以外の人形の配置も理にかなうようです・・・
『官女(かんじょ)』とは、天皇・皇后の住まいである内裏(だいり)に仕える女性のことで、平安時代には「女官(にょかん)」と呼ばれていたそうですが、明治時代以降は「女官(じょかん)」という呼び名に統一されたそうな
ですから、『官女(かんじょ)』は正式な呼び方ではなかったようですね~
挿絵(画像):「実鈴」さん作(ありがとうございます)
・我々から向かって左端の「加えの銚子(ちょうし)・提子(ひさげ)」を持っている官女
加えの銚子(ちょうし)・提子(ひさげ)とは、注ぎ口が付いた小鍋のような形をした金属製の容器のこと
中にお酒を入れ、向かって右端の官女が持つ長柄銚子(ながえちょうし)に移すための道具であり、その役どころから、お内裏様・お雛様側からみて、右側に配置。序列としては3位(一番しもて)
・中央で「三方(さんぽう)」を持っている官女
三方(さんぽう)とは盃を乗せる台のこと
ひな飾りでは、年長のリーダー的存在である官女が持ち、ひな壇でもこの官女のみ座っているケースが多く見られる。役どころの序列としては2位(年功序列では1位)
ちなみに、年長である証拠として、中央の官女だけ眉毛がなくお歯黒の容姿をしており、これは彼女が既婚者であることのしるし。つまり、眉毛があり、口の中も黒くない両端の官女は未婚の女性であることがわかります※是非、ご自宅のひな人形で確認してください!
・我々から向かって右端:「長柄銚子(ながえちょうし)」を持っている官女
長柄銚子(ながえちょうし)は、加えの銚子(ちょうし)・提子(ひさげ)によって移されたお酒を盃に注ぐための道具
3つの道具の中で、お内裏様やお雛様から最も近く酌(本酌)をするため、格が高い役どころとされ、お内裏様・お雛様側からみて、左側に配置。序列は1位(一番かみて)
三段目、『五人囃子(ごにんばやし)』の持ち物と役どころ(序列)
雛飾りでは、お内裏様とお雛様の結婚式の宴をイメージしており
『五人囃子(ごにんばやし)』は、その宴に唄や舞、演奏を披露し、盛り上げる役どころである
通常子供のようにあどけない顔に作られており
本来、貴族等名士の子息で、元服を控えた11歳~16歳くらいの少年がモデルとされている
我々から向かって右から
・謡い(うたい)
・横笛(よこぶえ)
・小鼓(こつづみ)
・大鼓(おおつづみ)
・太鼓(たいこ)
の順で、左へ行くほど音の大きい楽器になっていきます
つまり、一番難しいとされる役どころ、唄や舞(踊り)をする、謡い(歌手)がお内裏様・お雛様からみて左側(かみて)で、序列1位(やはり、ジャイアンじゃ困りますもんね~)
次に、楽器の中でも熟練を要する、横笛、小鼓(手でたたくもの)、大鼓(指革をつけてたたくもの)、太鼓(バチでたたくもの)と順に続きます!
以上、今回(前編)は
『ひな人形のお飾り』、各人形の役どころと序列(かみてしもて)
についてのお話しましたが
次回(後編)は、残りの人形である
『お内裏様』 『お雛様』 『仕丁(しちょう・じちょう)』 の役どころと序列
これには、関東風雛と京(関西)風雛の違いがあることと
日常、何気ないところに “かみしも(上手下手)” の慣習が残っていることについて
お話させていだきます!m(__)m
金・銀・銅メダルのお話
2022北京冬季オリンピックも無事閉幕!日本は過去最多の18個のメダル!!
夏の東京五輪と同様、コロナ禍の中
代表の選手他スタッフの皆さん、本当にお疲れ様でした!
そして、感動をありがとう!!
結果的に
金メダル 3個
銀メダル 6個
銅メダル 9個
と今大会のメダルランキングが12位
冬季五輪で過去最多の18個
と有終の美を飾ったのではないでしょうか?
で、今回はオリンピック他、スポーツ大会における
金・銀・銅メダルについてのお話を・・・
メダルは何故 『金・銀・銅』 なのか?
この疑問については、私が小学生の時に
学校の図書館で調べた記憶が・・・
近代五輪開始当初は『金・銀・銅』ではなかった
・記念すべき※第一回ギリシャ・アテネ大会(1896年)は、財政難などもあって、1位に銀メダル、2位に銅メダル、3位以下には何もなしだったそうな
・※第二回フランス・パリ大会(1900年)で、陸上競技のみに金・銀・銅メダルが贈られる。が、製作が間に合わず、表彰選手に授与されたのは2年後だったそうな
・ちなみに記念すべき※第一回の冬季大会は、フランス・シャモニー(1924年)とのこと
・また、一番大事な、何故1位には「金」、2位には「銀」、3位には「銅」メダルを授与するのか?の理由は、あの「※オリンピック憲章」にも記載がない
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
※第二回フランス・パリ大会(1900年)
※オリンピック憲章
ナチズム喧伝に利用されたベルリン五輪、日本を含む西側諸国がボイコットしたモスクワ五輪など、時代ごとの国際情勢を映してきたオリンピックの歴史を追い、今の課題を洗い出す。五輪代表経験を持つ元プロサッカー選手にして米国気鋭の政治学者による渾身の作
冬季五輪の歴史をたどれば、知らなかった雑学が満載。「最初は夏季五輪の一環だった」「犬ぞりレースがあった」「開会式をディズニーが演出!?」から、日の丸飛行隊や長野大会の感動まで、すべての冬季五輪史を貴重な写真と詳細な記事で再現 (2009/12/10出版)
2020東京オリンピック・パラリンピックで展開される33のオリンピック競技と22のパラリンピック競技の基本と雑学ウンチクを網羅した書。やさしい解説とイラスト図解で、五輪競技が丸わかりの一冊!
人類にとって馴染みのある金属であり、加工しやすい
・人類が金・銀・銅に出会ったのが、紀元前数千年前と言われ、古くより馴染みのある金属であった
・いずれも純金属で、自然金・自然銀・自然銅として地球上に存在したため、鉱石から金属を抽出する製錬技術を経ることなく、簡単に金・銀・銅を手にすることができた※存在比が金・銀・銅の順で位置づけられているらしい
・道具や装飾品にする際も、いずれも融点が1000℃前後のため、当時の熱源で比較的容易に溶解することができ、材質てきにも延性が豊かで塑性加工しやすい金属であった
・性質上も安定的で金・銀・銅の順で錆びにくいそうな
・貴金属性が高く、※元素周期表では、第11族の元素に属し、別名「貨幣金属(Coinage metal)」という呼び方もするそうな※古代オリンピックでは勝者に報奨金を与えたらしいが、近代オリンピックではお金を与えることはできないので、「貨幣金属」であり、かつ、硬貨に代わる価値のある金属(メダル)ということで金・銀・銅になったのでは?という説もあるらしい
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
※元素周期表
その輝きで人々を魅了し続けてきた「金・銀・銅」は、贅沢な装飾品として、通貨として、歴史を動かす「富」そのものであった。そしてそのいずれについても、かつて日本は豊かな産出量を誇り、採鉱、精・製錬、金属加工の技術は、驚くべき高みに達していた。豊富な資料に基づいて、古代に始まる「モノづくり」の手わざの跡をたどる
石見銀山の開発を契機に、日本経済や東アジア貿易、国際関係は激変した。銀の支配と流通から西国大名の貿易や織豊政権の物流を活写
金・銀・銅が全く違った美しい色合いに輝き、区別がつきやすいこともメダルに選ばれた重要な要素だとも言われる※数ある金属の中で色調を有するのは金と銅であり、ほとんどの金属は「銀白色」 その中で残りの銀が選ばれたのは、光の反射率が高いためともいわれる
以上の所説・理由等で、金が1位、銀が2位、銅が3位に位置づけられたのも自然の流れなのかも知れませんね~
正確には、『金・銀・青銅』 !?
最後に
英語を学ばれた方ならご存じのように、「銅」は英語で「Copper」といいますが
オリンピックでの「銅メダル」は「Bronze Medal」 といいます
そう、あの「ブロンズ像」の「Bronze」
「Copper」と「Bronze」の違い
正確には「Copper」が「銅」
「Bronze」は「青銅」を指します
「銅」は非常に柔らかい金属で
多くの場合の「銅製品」には「銅」と「錫(Tin)」の合金である「青銅」が使われます
あの「銅像」も、正確には「青銅像」なんですね~※電気製品で使われる「銅線」は「Copper Wire」といい、すべて「銅」です
是非、町内会のスポーツイベントや習い事イベントに!
フットボール(サッカー)といえば、「メダル」より「トロフィー」ですよね~
既にたくさんお持ちの方に!
カバー&挿絵(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)
ガラパゴスな “和製外国語”
2022北京冬季オリンピック、連日熱戦が続いてますねっ!
突然ですが、先日お義母さんから電話があり・・・
その内容は
テレビをみていて、各会場に書かれている文字(下記)は何と書いてあって、どういう意味なのか?というもの(嫁のお義母さん、疑問に思ったことはすぐ聞くタイプなんです!)
参考画像&URL:公益社団法人日本オリンピック委員会より(オリンピックの際にはいつも拝読してます!m(_ _)m がんばれニッポン!!)
「BEIJING(ベージング)」 = 「北京(ペキン)」
そう・・・私が英会話を習いはじめた頃
ネイティブの英語講師と世界の地理?情勢?について話をしていて
この 「BEIJING」 という言葉を聞き、それがの北京のことだということを知り
驚いたことがあった
「BEIJING(ベージング)」?
「北京(ペキン)」は
「PEKING(ピーキング)」じゃないのか!?
じゃ~、「北京(ペキン)」 という発音は日本語なのか!?※やったら音読みの 「北京(ホクキョー)」 でしょ!(笑)
で、いつもの癖でさっそく調べてみた記憶が・・・
ペキン(北京)
・17世紀頃の清朝時代には、「北京」 のことを 「PEKING」 といい、当時の(清朝)貴族達も 「PEKING」 と発音していたらしく、の宣教師がそれをラテン語表記(ローマ字読み)※郵政式にしたとされる
・その後、キリスト教伝道のためにヨーロッパから中国に来た宣教師たちの日記・書簡にも「北京」のことを 「PEKING」 と記されるようになった
挿絵(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)
・当時ヨーロッパとの貿易地は、広東(省)にある広州(市)で、そこの方言として 「北京」 のことを 「PEKING」 と発音されてたといわれている
・も同時期に、ポルトガルやオランダとの交流があり、日本に来たポルトガルやオランダ(人や書物)から「北京」のことを「PEKING」 ⇒ 「ペキン」と発音されるようになったのではないかと言われている
中国には、北京語・広東語・福建語など日本でいう方言があり、発音が微妙に違う。当初ヨーロッパから伝わった 「PEKING」という発音は方言であり(その後が※ウェード式なる発音・表記を用いるが)、以降中国の歴史(王朝・政権)の交代によって、「PEKING」 という発音でなく、現在の標準語でもある 「BEIJING」 (※ピンイン式)という発音(表記)に変わったとのこと
しかしながら、ヨーロッパを介して「北京」のことを 「PEKING」 と発音することが伝来されて以来、で 「北京」 のことは、ずっと 「ペキン」、 「PEKING」 という発音や綴りでもあり、それが通用するのは日本国内だけとなってしまったそうな・・・※一部、中国内外でも「北京大学」や「北京ダック」など、「PEKING」(郵政式)を踏襲しているものもあり
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
北京の名前 - ウィキペディア (wikipedia.org)
これはもう、ガラパゴスな“和製外国語”やね~
でも・・・
探してみたら、あるわあるわ!
「ペキン(PEKING)」以外のガラパゴスな”和製外国語”!!
イギリス(英吉利)
・本国の英語読みでは 「United Kingdom(ユナイテッドキングダム)」 という
・ 「イギリス」 の語源は、ポルトガル語で 「イギリス人・の(English)」 を指す 「Ingles(イングレス)」 からきており、これが 「イギリス」 に変化したとされる
の戦国時代、日本にやって来たポルトガル人達がイギリス人のことを 「イングレス」 と言ったが、それを国を指す言葉である「イギリス(英吉利)」 にしてしまったそうな
ドイツ(独逸)
・本国のドイツ語読みの 「Detuschland(ドイチュラント)」 からきている
・1878(明治11)年頃のの世界地図には、ドイツは 「日耳曼(ゼルマン)」 と記載されており、これは英語読みの 「ドイツ人・の(German)」 からきているといわれる
・ほとんどの国がドイツのことを「Germany」と呼ぶが、1870(明治23)年頃の日本の世界地図には、「獨逸(ドイツ)」 という表記に変わっている
その理由として、当時のの両国家間の深い親交が関係されたとのこと
当時新興国で、技術大国、軍事大国として急成長を遂げていたドイツを日本は、医学や憲法(ビスマルク憲法を参考に大日本帝国憲法) などお手本としており、そのために本国の呼び方を定着させたとのこと(つまり、ドイツに対してリスペクトしたわけやね)
アメリカ(亜米利加)
・本国での正式名称は 「the United States of America」、では「アメリカ合衆国」と呼ぶ
※「state」は「州」の意味なんで、本当は「合州国」なんじゃないの?といつも思う(笑)
・それ以外に上記の頭文字を取って、「U.S.A」 「USA」 や、「US」 「the States」ともいう
・自国のことを省略して「America」とはいわず、アメリカ人(の)の場合「American」という
その理由として、「America」という呼び名が「アメリカ大陸(American continents)」の意味で捉えられることが多いからとのことで、アメリカ大陸の国々をまとめて「the Americas」と複数形表記されることもあるそうな
では、何故は「アメリカ合衆国」のことを「アメリカ」と呼ぶのか?というと、これも所説あって、またまたイギリスのケースと同じ(笑)、ポルトガル語で 「アメリカ人・の(American)」 を指す 「Americano(アメリカノ=アメリカの)」 からきており、これが国を指す言葉の 「アメリカ」 になってしまったそうな
オランダ(阿蘭陀/和蘭)
・オランダは、本国のオランダ語読みは 「Nederland(ネーデルラント)」 英語読みも 「Netherlands(ネザーランド)」 と呼ばれる
・オランダの語源は、「Holland(ホラント)」 からきていて、ネーデルラント王国の州の1つで、かって(17世紀頃)は王国の中でも一番勢いがあり、力があったそうな
・そんな時代にまたまた(笑)、ポルトガルの宣教師がに 「Holland (ホラント)」 をポルトガル語で 「Hollanda」 と伝えたそうな(ポルトガル語だと最後に母音の 「a」 がつくそうです!)
・そのため、はネーデルラント王国のことを 「Holland (ホラント)」 のポルトガル語読みである 「Hollanda(オランダ)」 と呼ぶようなった
・ちなみに、ポルトガルのお隣スペインでも、「Holland (ホラント)」 をスペイン語で 「Holanda」 と呼ぶそうな
トルコ(土耳古)
・本国での正式名称は、「Türkiye Cumhuriyeti(テュルキイェ・ジュムフリイェティ)」 トルコ語で「トルコ人の国家」を意味し、オスマン帝国崩壊後の1924年に建国宣言がなされ、正式国名として制定される
・語源は、力強い人や軍団を意味する遊牧民族の「チュルク」
・公式の英語表記は、「Republic of Turkey」 では「トルコ共和国」 と呼ばれる
日本で「トルコ」と呼ばれる理由が、ポルトガル語で「トルコ人(の)」を意味する「turco」が由来と言われているそうな※またポルトガル語か・・・
また、漢字名の「土耳古」だが、明の時代ので、「Turkey(ターキー)」を中国語で「土耳其」と記述されており、中国語では「耳」は、「ル」に近い「アール」と発音するそうな
そのため、の学者が「トルコ」の漢字名を付ける際に、中国語表記を参照し、「土耳古」としたとされているそうな
カステラ(粕貞羅・粕停羅・粕底羅・粕貞良・加須底羅・加寿天以羅・家主貞良・春庭餹・角寿鉄異老)※あるわあるわ、当て字のオンパレード、まるで某集団みたい!
挿絵(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)
カステラとは
卵を泡立てて、小麦粉、水飴などを混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いたお菓子のことで、 ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元にで独自に発展した和菓子のこと
では、この「カステラ」という名前はどこからきたのかというと・・・
1.カスティーラ王国説
カスティーラ王国とは、1035~1715年までイベリア半島中央部(現スペイン)で栄えた王国で、当時ポルトガル王国と領土を二分しており、そこで生まれたお菓子が「カステラ」という名前の由来だとする説
に初めて「カステラ」の原型らしきお菓子持ってきたポルトガル人に対して、日本人が「このお菓子はなんと言うのか?」と聞くと、「カステラ王国のお菓子です(ボロ・デ・カステラ)」と答え、それを聞いた日本人が「このお菓子はカステラと言うのか」と勘違いして、カステラと言う名前が広がったというもの
スペインでお菓子を作る際に、メレンゲがしっかりとあわ立つように、「お城のように高くなれ」と掛け声をかけたそうな
城のことをスペイン語で「カスティーリョ」と言い、その言葉が耳に残って「カステラ」と言うようになったというもの
参考URL:トラベルガイドPokkeより(いつも拝読してます!ありがとうございます!!)
カステラのルーツを探れ!長崎伝来は本当?歴史や由来も紹介 | Pokke「ポッケ」
挿絵(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)
1624(寛永元)年創業の福砂屋は「カステラ本家」と言う登録商標を持つ老舗。創業以来、手作りにこだわって添加物を一切加えないことから、賞味期限が9日前後と短いので有名
1681(天和元)年創業の老舗が「松翁軒」。最初に伝来した製法に水飴を加えるなど、創意工夫を加えて独特の和菓子として有名
石臼で挽いた小麦の香り、卵と砂糖の味わい。しっとりとした口あたりのカステラ。素材の持つ自然の力と伝承と革新の技で、カステラ職人が一枚一枚手焼きしています
長崎心泉堂のカステラは “しっとりとした口どけ” と “ふわふわとした食感” が特徴です!
こうしてみると
いずれのガラパゴスな “和製外国語” に
「ポルトガル(人)」が一枚噛んでいる!
※もうこれは “和製ポルトガル語” やね!!
“オタク的行動派”で、辞書好きの私には、たまらなく素敵な一冊!(笑)
カバー(画像):「ねんねこ」さん作(ありがとうございます)
建国記念日・・・ではなく・・・
2月の三連休最終日、皆さんいかがお過ごしですか?
三連休初日の一昨日、「建国記念日」 ではなく・・・
「建国記念の日」 ※いつも思うことやけど、ややこし~
学生の頃、のネイティブ講師にこの祝日に関する質問に答えたり、説明するのが
「建国記念の日」とは
・「国民の祝日に関する法律」によって定められている日本の※祝日の一つで、1966(昭和41)年に制定される
・この祝日の起源は、「古事記」や「日本書紀」において、の初代天皇とされる「神武(じんむ)天皇」の即位日が、紀元前660(皇紀元)年の1月1日で、1873(明治5)年に新暦に換算した2月11日を「紀元節(日本の国が始まった日)」として、※祭日となる
・1948(昭和23)年に占領軍(GHQ)が皇室と神道の繋がりをなくすために「紀元節」を廃止
・その後、「紀元節」を復活しようという機運が高まり、「建国を記念するための祝日」を設けることとなり、1966(昭和41)年に、「紀元節」から「建国記念の日」と名前を変え、翌1967(昭和42)年から国民の祝日となる
・※内閣府の「国民の祝日について」によると、「建国記念の日」は「建国をしのび、国を愛する心を養う」日と説明???
つまり
「日本という国ができたことに思いを馳せて(笑)
自分の国を大切に思う気持ちを育む日」 的な・・・(イマイチ、ようわからん)
※祭日と※祝日の違い
祭日・・・皇室を中心とした「神道」のお祭りをお祝いする日
祝日・・・国が定めた休日
(なるほど、「祭日」と「祝日」が混同されやすいのは、昔の祭日が祝日として残ったものがあるからやね)
参考URL:「※内閣府」より(ありがとうございます)
皇紀元(紀元前660)年の信ぴょう性
西暦2022年を皇紀に直すと2682年だそうな
その皇紀元(紀元前660)年前後の世界情勢はというと・・・
紀元前770年:春秋時代の幕開け
紀元前750年:古代ローマ王国が建国
紀元前722年:イスラエル北王国滅亡
紀元前660年:神武(じんむ)天皇即位
紀元前586年:イスラエル南王国「ユダ」滅亡
ですが、ほとんどの歴史学者曰く
紀元前660年のは
この頃の建国はかなり無理があるとのこと・・・
の国が始まった日が、歴史的に定かでないため、あくまでも「建国をお祝いする日」
そう、「建国記念の日」は日本が建国された日でなく、「建国されたことを祝う日」なのだ!
でも、日本以外の国の「建国にまつわる日」は、こんな感じなのか・・・?
世界各国の建国にまつわる記念日
・・・Independence Day 「独立記念日」 といい、毎年7月4日。1776年の大陸会議、イギリスの北米13植民地代表(州)でアメリカ独立宣言に署名された日
・・・Fête nationale 「国民祭典」「フランス革命記念日」、日本では通称「パリ祭」と呼び、毎年7月14日。1789年、バスティーユ牢獄襲撃・政治犯解放でフランス革命が始まった日
・・・Tag der Deutschen Einheit 「ドイツ統一の日」といい、毎年10月3日。1990年ドイツ連邦共和国(通称西ドイツ)とドイツ民主共和国(通称東ドイツ)が再統一した日
・・・Festa della Repubblica 「共和国記念日」といい、毎年6月2日。1946年国民投票により王制に代わって共和制を政体とすることを決定した日
・・・「国慶節」といい、毎年10月1日。1949年、毛沢東が天安門で、新中国の建国宣言をした日
・・・「光復節」といい、毎年8月15日。1945年大日本帝国政府によるポツダム宣言受託により、日本の統治から朝鮮が解放(光復)された独立記念日(正確には1948年8月16日に初代韓国大統領李承晩が宣言したそうな)
「開天節」 毎年10月3日開天節紀元2333年(紀元前2333年!日本より盛るね~)、朝鮮民族の建国神話で檀君(神と熊の間にできた子らしい)が古朝鮮王国(檀君朝鮮)を建国したとされる日
・・・連合王国を構成する4か国すべて、はっきりとした建国の日を持たない。ただし、
・連合王国の元になったイングランドとスコットランドの合併は1707年
・イングランドに関して、現在に繋がる国家の起源に近いかたちになったのは1066年
・4か国には、守護聖人の記念日はあり
ウェールズ・・・聖デイヴィットの日(3月1日で非祝日)
北アイルランド・・・聖パトリックの日(3月17日で北アイルランドで祝日)
イングランド・・・聖ジョージの日(4月23日で非祝日)
スコットランド・・・聖アンドリュースの日(11月30日でスコットランドで祝日)
ロシア・・・「主権宣言記念日}といい、毎年6月12日。1991年ソビエト連邦から独立を宣言した日
ギリシャ・・・「参戦記念日」といい、毎年10月28日。1940年の第二次世界大戦への参戦表明日※第一次世界大戦には中立体制を理由に参戦しなかった
イスラエル・・・「独立記念日」という。ユダヤ暦イヤル(Iyar)月の5日で、西暦に換算すると年ごとに日にちが変わる。1948年5月14日、イギリスより独立を宣言した日
エジプト・・・「革命記念日」といい、毎年7月23日。1952年に起きた(軍事)革命を記念する
インド・・・「独立記念日」といい、毎年8月15日。1947年、イギリスから独立(パキスタンとの分離独立)した日
パキスタン・・・「独立記念の日」といい、毎年8月14日。1947年、イギリスから独立(インドとの分離独立)した日